2005/5/4〜5/5 六合大槍セミナー IN 東京

文/ホームページ管理人TK

神技・馬氏八極拳の六合大槍がここに初めて明かされる

螺旋の力で突いてきた棍が大きく弾き飛ばされる!!

今回六合大槍セミナーで指導してくださった小林正典師範による「拿」の技法。

突いてきた相手の棍がシャッ!!という音を立てて竜巻に触れた時のように弾き飛んでしまうのだ。

その秘密は螺旋の力によるものだ。小林師範の長年の修行による成果といってよいだろう。

対劈対扎の練習。

こうした相対練習を行うことにより実用につなげていくのだ。

さる平成17年5月4日・5日、東京都内の施設において六合大槍セミナーが行われた。ほとんどが全く初めて槍を習う受講生のみなさんであったが、当会代表師範である小林正典師範、みずから手を取って、基礎から対劈、対扎そして基本対練習套路である八母槍まで出し惜しみもなく指導された。実戦武術最高峰の馬賢達老師の入室弟子である小林師範から直接こういった指導を集中的に受けられたことは、今回参加された受講生にとって大変貴重な体験となったはずである。

六合大槍の学習についてだが、まず基本の「?」「拿」「扎」から始まるわけだが、特に「?」「拿」の技法は螺旋の力(纏絲による勁)を要求される。この纏絲による勁は槍術にとって重要なものであり、多くの流派がこの原理を採り入れられているともいう。

小林師範はまず最初に力を抜くことを要求される。常識に考えたら、力を用いずにどうやって技をかけたらいいのかというふうになるわけだが、通備武術では、筋肉を力を発する源としてではなく、「力の伝達器官」として用いている。したがって、体を緩めることによって、力が足から手へと螺旋状に導かれるのである。

通備武術では独特の身法を初心者から練習するので、その効果を身体内で処理されるように要求されるのだ。このような段階になると、小林師範のようにごく普通に触れた距離で、ほとんど反動を用いずに相手を吹っ飛ばしたり、打倒できるといった中国武術でいう寸勁、冷勁といった高度技術ができるようになる。

話を元に戻すが、「?」「拿」で相対練習をする時、相手から突いてきた棍に技をかける時は、相手に触れた刹那、その部分を円運動や螺旋の動きで相手の攻撃部分を狂わせるわけだ。その際円運動により、相手の虚の状態を作り出し、そこから相手を攻め込んでいく。

これらの技法は大変高度なものであり、微妙なものであって文章で著すには困難である。

小林正典師範は「今回受講されたみなさんは本当によく学んでくれました。みなさんの一生懸命な姿勢にとれも嬉しく思います。習うのは誰だってできる。習ったのを熟練し自分のものにしないと武術としては何も役に立ちません。形だけ上面な用法程度それだけでは宙ぶらりになってしまうだけです。今回の学習を通じより深い武術を極められることを希望します」と言われた。

六合大槍の基本を熱心に練習されているみなさん

拳法の技撃だけでなく、武器の名人でもある馬賢達老師

小林正典師範の師・馬賢達老師の20歳の頃(右・1953年全国短兵格闘試合にて)

馬賢達老師は若い頃、全国規模の大会で全国から集結した達人を打ち倒し優勝を果たしたのだ。

それは散手だけでなく、武器においても遺憾なく実力を証明された。

長兵部門(※槍や棍等の長い武器をフルコンタクトで打ち合う競技。今は表演武術が盛んなため、行われていない)には大会の規定上、エントリーできなかったが、もし、散手及び短兵で優勝した馬老師が長兵部門にもエントリーができ、参加していたら、馬家の六合大槍の真髄を発揮し、その強さも全国へ震撼させたであろう。

今回のセミナーで六合大槍を指導してくださった小林正典先生の師・馬賢達老師は、1932年生まれであり、幼少の時から父であり、同時に滄州出身の著名武術家である馬鳳図から家伝の武術を学ぶ、父の厳しい監督の下、不断に修行を重ね、劈掛拳、八極拳、翻子拳、戳脚等の拳種や六合大槍をはじめとする多くの種類の武器に精通することとなる。

そして天津の大学へ進学し、武風の盛んな地である天津で若き馬賢達の実力が証明されることとなる。

1952年天津で行われた新中国後になって初めて開催された全国規模の大会において、散打(散手)、短兵、表演にエントリーし、弱冠19歳の若さで優勝を果たすのである。この大会は長兵部門もあり、この部門は馬賢達老師はエントリーしなかったのだ。なぜなら、この大会は規定上一人の選手は3種目までしか参加できず、この大会が開催された天津は地理上の関係で古くから武風の盛んな地であり、形意拳、八卦掌、迷蹤芸、八極拳、通臂拳、劈掛拳、蟷螂拳等といった実戦的な武術を極めた強豪が集結した土地であったからである。それにより馬賢達老師は長兵部門はきっとすごい猛者が参加すると推測し敢えてエントリーしなかったという。なぜなら長兵部門は武器の王と言われている槍及び棍等といった長い武器を用い実際に打ち合い勝敗を決める試合であり、昔から真の名人は槍に秀でているといわれたぐらい高度な技芸が要求されるからである。

この長兵部門も広い地域から多くの武術家が参加し激戦したが、その中で優勝を果たしたのは戳脚門の李学文である。「この大会は広い地域からエントリーができ、しかも開催地が天津であるので、きっと私よりすごい武術家が参加し、その腕を見せてくれると信じ、敢えて長兵部門だけは参加しなかった。しかし思ったよりそんなにレベルが高くなかったのが残念だ」と馬賢達老師は述懐する。

しかも長兵部門にて優勝した李学文はこの大会の散打部門において、決勝で馬賢達老師と争うこととなり、馬賢達老師の猛烈な拳打により完敗している。その後完敗した李学文は出家し行方が知られてないという。もし馬賢達老師が長兵部門にエントリーしていたら、きっと馬氏の六合大槍等の技芸を遺憾なく発揮し、優勝できたのが想像できる。

その翌年1953年11月天津で行われた「全国民族形式体育表演和競賽大会」においても、前年天津で行われた短兵部門でのチャンピオンである馬賢達老師はこの短兵部門に参加することとなる。しかしこの大会の短兵部門は中国全土の六大地域のチャンピオンを集めた中での総当りリーグ戦の試合であったので、非常に激しい戦いであったという。その中で馬賢達老師は無敗の記録で優勝を果たした。ちなにに、2位は華北地区チャンピオンの王建奇、3位は東北地区チャンピオン孫徳興、4位は中南地区の魏大鴻、5位は馬老師の兄上であり西北チャンピオンとしてこの大会に参加した馬穎達老師である。どれも中国の各地区を代表する猛者であり、その激戦の中で勝ち続けた馬賢達老師こそ現在中国武術において実戦で証明してきた代表的人物でいってよいだろう。

当時、多くの武術家が馬老師のその強さを称え、今現在でも「武術の郷」滄州から出た英雄とも称えられている。(※馬老師は甘粛省で幼少を過ごしたが、祖籍が滄州のため、滄州の武術家たちにとって大変名誉のためそう表現されているのだ)

目にも止まらない早業で全国の多くの達人を倒したその技撃は「快手馬」と称されている。

多くの強い名人を輩出した六合大槍

八極拳はかつて滄州地区に伝われていて、最初の伝人である呉鐘は大槍の名人でもあった。そして「神槍呉鐘」と称された。それから八極拳は大槍術をも練習する習慣のようになり、「神槍」は大槍術の達人に呼ばれる代名詞といっていいだろう。そして呉家と漢民族の羅田童(ラタン)へと分流し、それぞれ独自のものへと発展していったが、特に羅田童系から多くの優れた達人を輩出し、「神槍」張克明、「神槍」李大忠、「神槍」張景星、そして日本でも知られている「神槍」李書文と名を連ねている。したがって、八極拳は大槍術によって名を馳せたのであり、肘や体当たりなどの接近戦によって名を馳せたのではないと唱える人もいるのだ。だが昔の八極拳家は比武(試合)の時は拳ではなく、もっぱら大槍で比武をしていたというのが実際だったようである。

よって多くの勇名を馳せた八極拳家は「神槍」という称号を与えられている。それぐらい八極拳にとって六合大槍は重要な武器である。

かつては滄州地区で伝わっていた六合大槍と八極拳だが、これらを広く伝えたのは、まずは李書文とその高弟である霍殿閣が挙げられる。それと同時に馬鳳図、馬英図兄弟、そして羅田童(ラタン)で学んだ韓化臣である。特にこれらの先人たちの業績は非常に大きい。そして今現在六合大槍は八極拳の武器として中国国内そして海外と知れられていくようになったのである。

六合大槍は元々河北省滄州地区に伝承がある八極門の間で伝わってきたのである。本来は独立した門派であり、起源は謎に包まれているが、歴史的に名称が出てくるのは、明の時代である。当時槍は歩兵戦の武器の主流であり、それと同時に「六合槍」が歩戦槍法の技術体系の核心であったといわれる。唐順之、戚継光、程宗猷などが著した書物の中に、六合槍の経典が紹介された後、世に知られ、明清代において六合槍は多く流派があったといわれる。

その中の一つの六合大槍が、いつ八極拳と密接的になり、八極門の武器の一つとして練習されるようになったかというと、頼れる資料がないため、不明であるが、はっきりしているのは、多くの説があるが、岳山張氏が呉鐘に六合正法を伝授してからである。呉は元々槍術を得意としていたが、それは六合の槍ではない。張氏から六合正傳を伝授された後、研究に苦心を重ね、各地を周り名手を訪ね試合をした。そして呉は「神槍」と称されるようになった。その後に呉は張氏から伝授された八極拳と六合大槍の技法を人々に伝えるようになったのである。

実際、「六合」、「八極」の名称はかなり古いものであり、「六合」とは元来6つの合戦の法を意味し、6つの各原則の違った技術を組合せて訓練をするものである。手、肘、肩、脚、膝、胯といった6つの身体部分を一種の動きを協調させるのも、「六合」と説明でき、また内外を融合させることが「六合」ともいう。これを八極に取り入られた形となる。

八極拳と六合大槍は合わせて練習するべきであり、八極拳の練習においては特に八極拳独自の勁道を追求し、「木庄靠勁」などの訓練をおこなうのだ。大槍を練ることによってより、より強大な発勁を会得しやすくなるといった具合である。また同時に八極拳を練ることにより、大槍の勁道を会得しやすくなるともいえる。よってこの二者は相互関係といってもよいだろう。

李書文は大槍術において不世出の実戦名人として広く知られている。馬鳳図は生前よく、「李書文先生は槍しか語らず、拳のことはほとんど語らなかった。八極拳を練習するにしても、八大招と基本の金剛八式を重視しており、八極拳の套路など見向きもせずに、大槍を重視し練習していたと語っていた」。このように、八極拳家にとって大槍は非常に重要視されているものだといってよいだろう。その李書文だが、体格は小柄で、普段は多くは喋らず、笑みも見せないような人であったが、胆力があり、大槍術の功力は大変高いものであったという。よって人々から「神槍」と称えられたという。李書文は扎槍の動作が非常に速く、威力があるものであった。特に「青龍獻爪」は百発百中といっていいぐらいで、多くの人を傷つけた。

1909年、孫文の同盟会燕支部の命により、馬鳳図が同じ同盟会の会員であった葉雲表たちと一緒に「中華武士会」を設立した。これは武林界の団結をもって、反清の発展を促すためであった。また、当時近代化がめざましかった日本の古来からある「武士道」に対抗するためでもあった。「中華武士会」は当時の多くの武術家が支持したのは必然であった。それから李書文も来てもらうように催促したのであった。李書文は馬鳳図たちの要望に応え、張徳忠、霍殿閣、崔長友などといった李の高弟を引きつれやってきた。そんな李書文をあまり快く思っていなかった形意拳の達人で有名な李存義、李存義は単刀李として勇名を馳せていた武術家であり、当時「中華武士会」に参加していた。そんな李存義を気にもせず、李書文は大扞子(※六合大槍の練習で使う棍)を手に取り、弟子と八母対扎を演武をしたのだ。その演武に周囲は度肝を抜かれたのは言うまでもない。李はどこへに行っても槍を手元から放さず、朝から晩まで練習していた膂力から繰り出す勁力は凄いものだったという。

六合大槍において李書文は近代の中で卓越した実力者であった。日本では李書文の八極拳の実力が取りあげられがちだが、実際は拳の練習するのは多くなく、大槍術以外は、八極の六開八招と劈掛の基本打法のみであった。職業武術家であった李書文は彼独特の武術観があったという。

李書文は最初は馬鳳図のことを若いくせに武芸が優れ、しかも自分よりずっと年下のなのに黄林彪門下の兄弟子にあたる馬鳳図のことを快く思わなかったのだが、「中華武士会」に参加し、交遊を重ねるうちに、李書文は馬鳳図に対する態度を変えたのであった。それは馬鳳図の実力と人格、そして馬の高い教養であった。李書文は馬のこれらに感心し、馬鳳図のことを認め、「中華武士会」の活動を協力したのであった。その間両者は何度かの技術交流をし、馬鳳図は李書文の大槍術や独自の武芸観も触れることができ、馬鳳図は大槍術に対しより深く精通していくのであった。馬鳳図晩年になってもよく李書文の話をし、懐かしく語っていたという。

また、馬鳳図はその頃に北京にて大槍で勇名を馳せた劉徳寛のもとを訪ねて教えを請い、それにより馬鳳図の大槍術は大変精妙なものとなって完成していく。

その馬鳳図だが、馬鳳図の槍術は親戚である孟村の呉懋堂から伝授されたものであり、呉懋堂は「神槍」呉鐘の子孫にあたる。また後に塩山の黄林彪から通備門の奇槍を学んだ。奇槍の本名は「戚槍」ともいい。明代の将軍・戚継光が著した「紀效新書」第10巻にある「長兵短用説篇」の中にある二十四勢槍法である。これは明代に流行した六合槍の主流であった。しかし清代初年になってからはその伝承がはっきりと不明である。ちなみに、「奇」と「戚」は中国語の発音で同じである。李雲標(黄林彪の師)と黄林彪は奇槍の伝承に力をつくし、奇槍の訓練を採り入れ緑営官兵を鍛えた。これでおわかりのとおり、奇槍は歩兵戦にいかに適した槍術といえる。

馬鳳図はまた弟の馬英図を羅田童へ差し向けて、当時の羅田童の八極拳の宗家・張拱辰に拝師させ、八極拳の他に六合大槍を習得させた。なぜなら、孟村は回族であり、羅田童は漢民族であって、独自の進化をとげていた。それに羅田童は多くの優秀な人材を世に送り出している。よって馬鳳図はその槍法を知るために弟を羅田童へ学びに行かせたのである。馬英図は張拱辰の晩年弟子であり、後に南京中央国術館において八極拳を指導した。そして全国から多くの武術家が出入りしていた南京中央国術館において実力を証明し、実力No.1と称されるようになる。

それから馬鳳図は弟の英図を連れて東北へ赴き、現地の武術家である赤β鳴九、程東閣、胡奉三と交流を重ね、三人から翻子拳を学び、そして馬鳳図は八極、劈掛の他に六合大槍を三人に教えた。馬鳳図が伝えた六合大槍の技術は彼らの翻子拳、特に戳脚に活かされたのであった。

その東北の三人の武術家の中で程東閣は山東の出身であり、程の父は保金票であって、南北を周っていたので広い見識をもっていた。程東閣は翻子、蟷螂以外にも短槍「兼槍帯棒」を得意としていて、その歩法は速く、実戦経験も豊富であった。馬鳳図が一生で多くの武術家と交流し、槍を交えていたが、その多くの名人の中で槍術の腕においては程東閣がNo.1としており、その程東閣から得たものは多かったようだ。

後に馬鳳図は西北に移住したが、通備武術だけでなく六合大槍の練習を続け、一日たりとも休んだことがなかったという。弟子と対打をしながら研究を重ね、通備独自のものに発展させたのであった。晩年になってもその実力は衰えず、屈強な弟子が向かっていっても負けなかったという。

また、1953年甘粛省第一回運動会の閉幕式において、馬鳳図は大槍を表演し、1964年陝西武術隊が蘭州に来た時に馬鳳図とその弟子である棍王・羅文源を訪ねたことにより、甘粛武術隊との聯合表演会を開催することとなった。その時も馬鳳図は最後に自らすすんで大槍を演武し、その重厚で一気呵成な演武は当時の武術家たちや若い選手たちが感嘆したのであった。当時から表演といった競技性武術が台頭してきた中、真の伝統の武術とはなにか、高齢の馬鳳図はそう言いたかったに違いない。この時、馬鳳図はすでに76歳の高齢になっていた。

六合大槍といった大槍術は旧中国においては、武術を練る多く修行者によってよく練習されていたが、套路練習を主流とする今日では少なくなってきてるのが現実のようである。その中で、馬家通備門はこれらの伝統の技芸を今の現在までよく受け継いでおり、大変豊富な内容のものまでもが現在まで受け継がれている。

現在中国の大槍の高手は非常に少なくなっており、馬賢達老師の他には、馬賢達老師の兄上である馬穎達老師が特筆されるが、惜しくも他界された。また、馬賢達老師の末弟であり曁南大学の教授であられる馬明達老師は現在中国の大槍術の技芸の研究及び理論において右に出る武術家はいないと言われている。

槍は「長兵の首」といわれ、高度な技術を要する。よって槍の理論を参考に太極拳や形意拳といった高度な拳法が生まれている。

六合大槍は八極拳と同様に花式を省き、実用と功夫のみを重視とする。大槍術を練習するにおいて、一定の長いもの(※3メートル以上)を使用するのを要求されることは、武術を志している人は誰でも知っていることである。またある一定の太さも必要とされている。過去において功夫をつけるために、八極拳家は通常4、5斤ぐらいの重さの大扞子を使っていた。長い大扞子でしかもこの重さのものを使って練習してみるとわかると思うが、相当重く操りにくい。有名な張拱辰、李書文たちは普段8斤の重さのものを用いて練習していたという。馬鳳図は70歳過ぎた時でも5、6斤の重さのもので練習していたのだ。

このように大きい大扞子で功夫を練るのである。八極拳は剛猛な拳法であり、接近短打の拳法である。八極拳の技術を向上するにはこのような大扞子を用いた補助トレーニングが必要である。膂力がある方が利点があるのはいうまでもない。だが、これは西洋式のウェイトトレーニングとは全く違い、特に八極拳は爆発力を要求され、力量のある突撃勁が要求されるのだ。あたかも重戦車が突進し大砲を打ち込むといった具合である。よって大槍を練習することにより、利点が出てくるのだ。力感だけでなく、槍の勁道を理解することにより八極の学習に効果をあげることができるのだ。挙げればきりがないし、これ以上の説明は通備門内の秘伝部分に触れることになるのでこれ以上の説明は遠慮させていただく。

大槍術で練った力は八極拳の打撃に大いに活かされ、その狂猛な発勁は一打必倒といわれている。日本で有名な李書文は試合で掌で打つと、一撃で相手の肩の骨が砕けたといわれている。

今回セミナーの指導をしていただいた小林正典先生は基本拳路の八極小架で「慢拉架子」を練るのと同時に大扞子(六合大槍)の基本動作を反復練習をおこない、?、拿、扎の相対練習をおこなうといいだろう、と言われる。大扞子を練りながら、強大な発勁を打てる基礎を作る、その際は六合の要求もされるのはいうまでもない。

馬鳳図、馬賢達の武術が日本へと受け継がれていく

小林正典先生は、10代のときに西安の馬賢達老師の門を叩いた。その当時は馬老師は中国武術界の重鎮であり、ましてや陝西賢達武術学院はなく、もっぱら壊れて使われてなかったジムや薄暗い施設の中で馬賢達老師について学んだ。その施設は施設といえるようなものではなく、西安の夏は熱く、軽く40度以上はなり、室内はサウナー状態になるのだ。その中で師が要求するメニューをこなしていくのであった。その当時馬賢達老師は10代の小林先生を、ただの外国から来た学生としてでなく、完全な馬賢達老師個人の私人学生として見ており、要求どおり動作ができないと容赦なく怒鳴られたという。でも、小林先生は当時を「一つのことができるようになったら、また新たな発見ができる。その新たな発見を見つけるのが、楽しくて練習を続けられた」と言われる。

なにせ、当時は陝西賢達武術学院といった施設がなく、なんといっても中国武術最高峰の馬賢達老師からほとんど一対一の学習である、しかもあの中国全土にその強さを知らしめた馬賢達老師が間近で動いて伝授していたのである。このような密度の濃い学習の中修行を重ねた。このように小林先生は師が見せてくれる大技に驚き、感服しながら馬氏通備武術の深みにのめり込んだのである。若い頃天津で他流派の多くの達人に打ち勝った百戦錬磨の馬老師を間近で体験したのである。このような貴重な学習がのちでも小林先生の武術修行に大きな財産となったのは言うまでもない。

先述のとおり馬賢達老師は最初から小林先生を外国からの学生として見なしていないので、教え方が向こうのやり方であり、非常に荒かったという。冬の氷点下の凍てつくような寒さの練習場に六合大槍を練習していた手の皮膚が破け、マメもが割れる。しかし繰り返し練習するしか上達の道はない。しかも西安の冬は西北の内陸のからっとした冷たい風が吹き、乾燥した空気が長時間大槍を握っていた傷を負った手がカチカチにさせる。それを続けて練習するのだから、傷を負った手が割れてとても痛い。朝起きた時その手が乾燥した状態になり、自由に手が動けなくなるので、その手をお湯に入れて氷を解凍するかのように乾燥していてカチカチになった不自由な手を解凍したのだと、そうしないと朝食の箸が持てないのだと、小林先生は述懐する。

だが、「今思えば、あの頃が一番良かった。何も考えずにただ師の話を聞いて練習すればよかっただけだから。いろいろあったけど、馬師父は本当に良くしてくれたと思う。家族の皆さんにも生活の面倒まで良く見てもらった」と小林先生は懐かしく語る。

小林正典先生は馬賢達老師の支持の下、正式に日本支部として活動されており、馬賢達老師から伝授されてきた中国武術の名門である馬氏通備武術の指導をされながら、今現在の中国武術の競技性により、伝統の武術が衰退されることを強く我々に訴えられている。先生のその伝統の武術に対する追求は理屈ばかりが優先されがちな今現在の中国武術界に鋭く拳でえぐるかのように、我々の心までえぐる。

練習風景

満身の力で込めて連射を打つ翻子拳の突き

身体の上下の起伏を使いながら上段、下段、中段と快速の突きを打ちわけているのが特徴だ。

通備門には「各家拳法兼而習之(各種拳法を兼習ながら、一つのものにしていき、元来のものよりより良いものにしていく)」という諺があるのだ。考えられないと思うが、通備門では翻子拳でも八極拳の六合大槍の練習は可能だ!!

通備門の身法を練りながら、六合大槍を練習することにより、速くて重い突きが打てるようになるのだ。

武器は拳の延長といわれて、武器を練ることにより打撃の強化に繋げることもできる。

六合大槍の基本

六合大槍の基本は「?」「拿」「扎」である。

神槍・李書文はこの3つだけを繰り返し練習し、高い功夫をもっていた

六合大槍の基本

突いてきた相手の棍を内から外へ円の動きにより、弾き飛ばす。

突いてきた相手の棍(槍)が触れたとたん、シャッ!!という音を立てて弾き飛ばすのだ。

こうした力を纏絲勁(てんしけい)という。陳式太極拳の纏絲勁も槍のこれらの動きにより取り入れられたという。正しい指導の下、練習を続けて熟練しないと、体現できない。

六合大槍の「劈」の動作

突いてきた相手の棍を内から外へ円の動きにより、弾き飛ばす。

突いてきた相手の棍(槍)が触れたとたん、シャッ!!という音を立てて弾き飛ばすのだ。

こうした力を纏絲勁(てんしけい)という。陳式太極拳の纏絲勁も槍のこれらの動きにより取り入れられたという。正しい指導の下、練習を続けて熟練しないと、体現できない。

八極小架「劈拳」

小架の中にある「劈掌」。槍の「劈」の動作より参考にされたことはいうまでもない。

三盤合一により突進しながら強い劈勁を振り下ろす。

大槍術を練習することにより、八極拳の猛烈な爆発力がある発勁を行うことができる。

「劈拳」の用法一例

(1)相手の突きを受けながら死角から接近し、

(2)体当たりを行いながら、手・腰・跨の部分ではさむようにしてテコの原理を使って崩しふっ飛ばす。

参加者の感想文

  • 今回、初めて六合大槍のセミナーに参加させていただき、武器が拳の延長であることを強く体験しました。六合大槍の練習は本物の槍は先が尖っていて危険なので、白蝋棍という190センチほどの木の棒で練習を行いました。私が白蝋棍を動かすと如何にも“道具を使っている”という感じだったのですが、小林先生が使うと私が突いた白蝋棍が大きな渦に吸い込まれるように弾かれてしまうのです。まさに“ただの木の棒”が持つ人が持つと“武器”になるのだなというものを実感しました。

    通備拳や八極拳の練習では「三盤合一」を意識するよう練習します。六合大槍の練習でも自分の力を伝えるのにも同様に肩・腰・足の協調が必要です。この六合大槍の動きで自分の動きがバラバラなのが視覚的にもはっきりとわかるので、より自分が「三盤合一」ができていないのが、よくわかりました。武器にしても、拳にしても、そこに力を伝える体の動きができていないと正しい威力が伝わらないのが改めて感じられました。雑誌でたまに呼吸で人を飛ばしたりして「これが発勁だ!」と自慢する人がいますが、これは浅学のレベルだと実感しました。全身の動作の協調により一瞬で発するのが発勁の基本的なことだと思います。

    小林先生はあまり発勁だ云々と言いません。実用技撃のことの方がうるさいと思います。中国武術は実戦武術だからです。そんな中国武術を学んで、格闘技ではどうして目を突いてはいけないの、股間を蹴っては駄目なの、喉を狙っては駄目なの、武術を習う前に自分の中であった疑問は中国武術を習っていくうちに疑問が疑問ではなくなりました。人体を合理的に壊す方法を習って、凄いと思うのですが、小林先生が「武術を練習する者は喧嘩をしては駄目だ!」という意味が今回のセミナーでより判りました。

    今後も架式や「三盤合一」といった基本的な要求と「六合」を大事にすることを心に留めながら、練習に励んでいきたいと思います。

  • 今回のセミナーに参加させていただいて大変感激しています。有難うございました。私は槍の講習は初めてなので、セミナーが始まる直前は不安で緊張していました。そんな私に小林先生は、「失敗を恐れては上達は出来ない、焦らずにじっくりと、しかし確実に練習していこう」と仰ってくれました。先生の真剣な気持ちに応えて頑張らねば、と思ううちに緊張は良い意味で前向きな気持ちへと変わって行きました。

    基本動作のコツがつかめずに苦労している私たちに先生は、槍の特性から基本動作の応用などをとおして、原理と用法を懇切丁寧に分かり易く説明してくれました。

    一通り基本動作を練習した後は、屋外での相対練習へと移りました。二人一組の練習は一人の時とはまったく勝手が違い、頭に描いていたイメージどおりに技が決まりません。これは中国武術を学習する人にとって必ずぶつかる問題です。先ほど先生に言われたとおり「一人で練習しても決して上達できないし、実用に使えない」との言葉の深さを思い知りました。

    先生は私たちが理解できるように、一人一人目の前で自ら手本を示してくれました。先生を目がけて突いた私の槍が凄い勢いで弾かれました。動作は一見すると単純で、どこからこのような凄い力が出るのかと、驚いて先生に尋ねると、「今のは螺旋の力であり、纏絲勁である」との事でした。陳式太極拳の纏絲勁と同質のようです。単純な動作の中に深い技術が込められている。これが中国武術なのだと思うと同時にそれを練習できる自分の境遇を嬉しく思いました。最後に六合大槍の基本套路「八母槍」を練習しました。「せっかく講習を受けたのだから、全員絶対に覚えて帰ろう」と暖かいお言葉で励まして貰い全員が覚えるまで何度も教えて頂きました。

    結局全員が覚える頃には、予定終了時刻をかなり過ぎてしまいましたが、先生は気にもせずに、セミナー受講後も各自が練習、上達できるように熱心に指導してくれました。

    私も受講者たち同様「正しい先生の指導の下、情熱があれば誰でも習得できる」との先生の言葉を忘れずに練習して行きたいと思います。

  • 今回、六合大槍のセミナーをとても楽しみにしていました。私は以前、張世忠先生と李英先生について八極拳を学んでいた時期があって、その2人の先生から馬賢達老師はものすごく強い人だと聞いていたからです。なので以前から馬氏武術に興味を持っていた一人です。その馬賢達老師から日本で普及するのを正式に認められている小林正典先生から直接六合大槍が集中的に習えると聞いたので、参加しました。

    小林先生の大杆子(※六合大槍の練習で使う棍)の動きを見て、やはり長年かけて中国で高度な武術を習得してきたものだと実感しました。私はこれでも長年他派ですが八極拳や六合大槍の練習してきたつもりです。いろんな人のを見ました。

    小林先生の技の正確性、そして技の豊富さには驚きました。ただ技が多いのではなく、基本の技から枝葉のように増えているといったかんじであり、原理があるからそれを増やすことが可能ということです。

    今回残念なのは、私が実家の用事で一日しか参加できなかったことです。私は李書文に憧れて八極拳をやってきたので、李書文が好んで演武していた八母対扎(八母槍)をぜひ学習したかったです。また教えていただける機会がありましたら、絶対に学びたいです。

    今回学習したものはどれも貴重なもので、毎朝練習しています。これから少しずつ向上できるように頑張ります。

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