1. 初心者はやさしい動作から練習に入ろう

初心者はやさしい動作から次第に難しい動作へと順序を追って練習する方がよいでしょう。たとえば蹴り技だが、最初は足をあまり高く上げずに低めに蹴り上げ、スピードも出さず、力もあまり入れないほうがよい。普段からあまり運動をやらない人は、とくにせっかちになって焦ってはいけない。はじめから力を入れすぎたり、高く蹴り上げたり、スピードを出しすぎたりすると、脚部の筋肉や靭帯を痛めやすいからである。なので、技術を身につけ、体に力がついてから運動量を増やし、何度の高い動作に挑戦するようにし、体の機能を高め、技術上のレベルアップを図った方がよい。

少し練習に慣れてきて八極拳の練習で行う体当たりの練習においても、いきなり思い切って踏み込んではげしくおこなってはいけません。最初は軽くゆっくりと正確におこないながら姿勢や動作の協調性を注意し、抵抗力がついてきたら徐々に力を入れるようにしたらよい。無理なく徐々にレベルアップをはかる練習こそが本当の功夫を身につける近道である。書物に出ている無知な研究家が言っているような激しく震脚をおこなえば良いというようなことは間違いである。

練習に際しては、ひとつひとつの動作をかなりマスターしたうえで組み合せの練習に入るようにする。組み合わせの練習に際しては、手、目、身法、歩法の動きを調和のとれたものにし、動作と動作のつなぎめに工夫をこらし、套路の練習によりよい基礎作りをしておくと、後の練習が楽です。

2. 三日坊主にならないこと

健康体は生まれながらのものではなく、運動を続け、体を鍛えることによって改善されます。人体のそれぞれの器官は、はげしい運動をする中でエネルギーが消耗する。運動に費やすエネルギーの消耗が大きければ大きいほど、運動の後の補給がはっきりと現れる。たえず運動をしていると、この種の消耗と補給はとぎれることなく続き、日がたつにつれて、体内におけるエネルギーの蓄えはますます多くなり、それぞれの器官における栄養状態は改善され、人体のさまざまな機能も相対的に高まりを見せる。そのため鍛錬をおこたれば、各器官の昨日と運動の技能はいずれも衰退する。

武術を練習する人はなるべく栄養のある食べ物を摂ろう。昔の中国では「裕福な者は武術を学び、貧乏なものは文を学んで身を立てる」といった諺もあるぐらいです。今の日本の若者は体力的に強くないだけではなく、精神的にも落ち着きがなかったりすることがある。いったい最近の若者は何が変わったのか。それはさまざまな理由があるかもしれないが、食べ物の影響がかなりあるであろう。ファーストフードやジュース類を好んでよく飲食するからで、血液の流れが悪くなっただけでなく、脳の働きが変わったこともあるだろう。例えば、コーラといった清涼飲料水には30グラムほどの砂糖が入っている。それを飲み干してしまうと、血糖値が急に上がり、また急に落ちてしまう乱高下状態になり。その時に無性にイライラしたり、耐久力がなくなる。要は最近流行のキレやすくなるというわけである。そういうものを日常に飲んでいると、血糖値の乱高下現象が日常的になり、気血も乱れ、一時的なものではなく、性格として定着してしまうのは必然的だといっても過言ではない。

それに一人暮らしの人はファミレスの料理やコンビニの弁当を食べたりすることが多いが、ファミレスの料理やコンビニの弁当には、食品添加物が入っていて、こうしてさまざまな化学物質を口に入れるうちに、体を汚すだけでなく、脳の中の機能も変わっていくこととなり、ドライな性格になったり、怒りっぽくなり、無感動になったりすることもある。

武術をやる人は心身ともに健全であってほしいもの。豪華なものでなくても、普段からなるべくしっかりと食事を摂って武術の練習に取り組んでいただきたい。

3. 困難はあなたを成長させるもの 怖がらず頑張ろう

初心者の時は、はげしい運動をした後、中でも圧腿、歩型や歩法の練習をおこなうと、筋肉の痛みやだるさを感じる。これは正常な生理現象であって、健康にはなんのさしつかえもありません。それははげしい運動をすることによって、大量の乳酸が作られ筋肉の内部に蓄積されるからであり、また圧腿といった筋を伸ばす練習をおこなうことによって、筋肉や靭帯を引っ張り、末梢神経を刺激するからであって、こうした刺激が大脳皮質に伝わり、痛みだるさを感じるのである。

練習に際しては、筋肉痛などの苦痛を恐れることなくトレーニングを続ける事が大切だが、同時に正しい練習方法を身につけなくてはならない。たとえば圧腿やテキ(足+易)腿といった練習をする際は、まずじっくり足の筋肉をほぐしてから足をならすこと。馬歩や弓歩などの歩型を練習した後には、必ず筋肉をほぐす。その他、筋肉の痛みやだるさに対しては、湿布をしたり、マッサージをしたりして血液の循環をはかり、痛みをやわらげる。正しいトレーニングを続けていくうちに、各器官の機能が適応するようになると、筋肉や靭帯の痛みやだるさは解消する。だが、そうだからといって無茶なことをしていいというのではない。脚部が柔軟ではなく強靭でない場合は、少しずつ伸ばしていけばよい。初めはうまくできなくても、無理をする必要はなく、練習を重ねるにつれて次第に上達するようになります。

4. 正しい姿勢や動作を学ぼう

初心者は正しい姿勢を覚える事が大切である。正テキ(足+易)腿を例に上げると、最初は額の高さまで蹴り上げれないなら、腰の辺りまで蹴り上げればよい。その場合脚部を真っ直ぐに伸ばす、肩に力を入れない、腰を伸ばす、背筋を伸ばすなどの基本的な動作は必ず守って欲しい。筋肉が痛むからといって、足を曲げ、腰を曲げて蹴り上げたのでは、見た目が悪いし、鍛錬の目的を果たす事もできないうえ、悪い癖がつき、技術のレベルアップの妨げとなります。

そのほか、練習の際には、力の入れ方を注意し、協調性があり、調和の取れたスムーズな動きを心がけ、力を入れすぎないことである。当初は先生の言う順序に従ってそのまま練習をしてもよいし、少し慣れてきたら自分の得意分野や苦手分野を選択してそれに絞った練習をおこなってもよい。それにみんなで練習する時は、互いに動作を直しあうことができます。だが決して我流で自分勝手に行っては決して上達しません。一つ間違った練習を続けていくと、悪い癖がつき、やればやるほど無駄になってしまい、しまいには怪我のもととなるからである。正しい指導のもと練習に取り組んでいただきたい。よって師範や先生の無断で練習生同士で中途半端な理解で解釈して教えあったり、独自にアレンジしたりするのももってのほかである。これは未熟な技術を持った者同士が勝手に解釈した結果の弊害が起こるからである。これは自分たちの門派に唾を吐く行為と同じでもあるので、慎まれたい。

練習はふつう食後一時間以上たってから始める方がよい。

5. 武術の修行とは、自分のためでなく、周りの大切な人があってこそ

己の鍛錬として武術の修行を怠ることなく続けるためには、家族や友人を大切にしなければなりません。武術の修行を通して家族そして友人、周りの人たちを守れる勇気を持つことも大切です。いたずらに敵を求めない事が原則であるが、武術とは本来護身のためにできたものであるから、自分の大切な人たちを守るために必要ならば、普段練った技法を用いて戦うこともやむをえないこと。

師から授かった秘伝をただひたすら自分で練ればそれでいい、あとは知らないよといった感じで伝承者ぶって中国武術をやっている日本人が中にはいらっしゃるが、それはまだ知ったかぶりの域から抜け切れず、自分の世界に殻を閉じこもっているだけの未熟なことだと思います。こういった人間は日本に限ってだが、中国武術の出版関係と関わりがある人間に幾人か見られ、○○拳の高い境地に達したいだけだとか私が習った発勁は本物だ云々と言っておきながら、実際の行動が矛盾だらけなことが多く呆れてしまいます。

自己中心だけであって、家族や友人を守れる勇気がないのに、武術に打ち込んでも意味がないと思います。すっかりドライになっている今の日本では少し古臭い言い方かもしれませんが、このようなことが今の日本人が失ってきていることではないでしょうか。中国武術では拝師制度があって、拝師の儀式をおこなった弟子は師と親子の関係と同じような信頼関係となり、師と弟子との心のふれあい、そして相互信頼関係によって師から弟子へと真伝を授けていくわけである。武術を修行する者は家族や周りを守れる心、そして心のふれあいができる人間になるのが基本的なことではないでしょうか。

武術を使って闘うことはあくまで生死をかけた最後の手段であるから、争いごとを未然に防ぐために自分から敵を作ることはできるだけ避けないといけない。そのために日常の言動には細心の注意を要する。たとえば、武術の組手練習などはもちろんのこと、普段の日常においても、右で勝ったら、左では負けるというような紳士的な気配りが必要です。これは圧倒的な勝ちを収めることにより、相手に不快感を与えてしまい、争いの種となるからであり、しまいには我こそは負かしてやろうという挑戦者が次から次へと現れて無益な勝負にまきこまれることを避けるためである。相手にも花を持たせる余裕のある心を持つことも大切である。

自分の力を誇示したいがために、自ら敵を求めるような行為はよくありません。武術の腕を自慢したいがために相手を傷つける事で、たとえ体に残った傷跡がなくなったとしても心の傷がある限り、争いが繰り返される心配もありうります。馬賢達老師が我々に仰っておられるとおり「普段は女性のようにおとなしくしないといけない」まさにそのとおりです。馬賢達老師はこのように仰りながら武術を修めていることを周囲に明らかにする事もできるだけ慎むように教えておられています。馬賢達老師が大学へ通われていた時に住んでおられた当時の天津は武風盛んな土地であり、多くの実力のある武術家がひしめき合っていました。あの当時天津で武術を修めていることが知られると、いきなり立会いを申し込まれたり、相手を打ち倒して試合に勝つと待ち伏せされることもあったそうです。よって自分が武術を使って闘うことは再びわが身にふりかかるという覚悟をしておく必要があります。

通備門は中国武術最高峰と呼ばれている流派です。その武術を修行する者として、普段から恥ずかしくない言動をするように常に己を律して行かなくてはなりません。また練習にさいしても、お互いの技を誇示しあって怪我をしないように、己の練習相手の体を我が身の如く考えて尊重しあうことが大切です。よってこのような精神のもとで修行をおこなう師弟の関係は肉親と同じように親密な縁によって結ばれるわけであり、門弟同士は兄弟のようになります。よって中国武術での門弟同士の間では先輩を「師兄」と呼び、後輩を「師弟」と呼びます。従って、たとえ武術の上級者であってもこれらの教えに背いた者や武術を修めるのにふさわしくないと判断された者は、通備門で武術を修行を続けることは遠慮していただいています。いくら組手が得意だからといって「俺は強いから、組手の時バンバン本気で行くから怪我しないようにな」と強さを示したいような人はそういう人間こそ人間そのものが未熟なので、破門という形をとらせていただいています。これらの理由で通備門から離れざるを得なかった者も過去に何人か存在したのは事実です。

師範や先生は通備門の武術を正しく後世に伝えていくという使命があるわけなので、いくら才能があったとしても、本当に受け継ぐのにふさわしくないと思われる人物には全伝は授けられることは決してありません。正統な武術ならどの武術でも同じだと思いますが、全伝を授けるのは、人間として武術を極めるのにふさわしい人物でなければならないからです。よって武術を修得するのに決して男女差別はありません。その人の練習の積み重ねと人間性次第ではないでしょうか。

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