「鉄臂燕子」李雲標大師

通備武芸は長い歴史の発展の中で形成されてきた。多くの先人が実戦経験を通じて研究し工夫した成果により現在の通備武芸として伝わってきたのである。

これらの多くの通備門の先人の中でもっとも傑出したのは、清末に活躍した河北塩山県の李雲標である。

李雲標こそ現在の通備武芸の体系の基を作った人である。

(1812〜1868)

河北省塩山県孟店(現在は孟村回族自治県に属している)の人。字は天漢。

古くから多くの書籍には「李雲表」とあるが、これは間違いであり、「李雲標」が正しい名前である。

また、多くの武術研究家は、民国時代に滄州の武術家が活躍したことが書かれた書物《滄県志》を基に、李雲標は八極拳家の一人と紹介しているが、これは間違いであり、実際は潘氏劈掛門の人である。よって李雲標の主となる武術は劈掛拳であり、師・潘文学の通備の教えである「融通兼備」を守り、八極、槍術等の武術を兼習として取り入れたのである。

幼少の頃から勇敢であり、師について武術を学ぼうと志したが、家が貧しくなかなか学べる機会がなかった。しかし志を捨てず、年齢が長じてから南皮県、呉橋県へ師に教えを請いに行き、唐拳、シュアイジャオ(柔道に似た投げを得意とする流派)及び武器を練習していた。

その後に、潘文学について劈掛拳、刀法、槍法、棍法などを学ぶこととなる。

師・潘文学は官方の身分であり、「親李学派」の思想を説きながら文武兼習を提唱していた。

滄州、塩山これらの県民に武術を指導しながら義を重視させるよう説いた。

一時、潘の所で武術を学んでいた門下生は多く、その中で李雲標と大王鋪出身の肖和成の2人は師・潘から最も深く信頼され、その功力は傑出していた。

李と肖の2人は潘文学から最も多くのものを受け継いだのである。

また、李雲標は八極拳、太祖拳などの武芸も兼習して習得し、師・潘が唱えた「通備」の教えに従い、即ち劈掛+八極の『長いものによって短いものを補うことにより、さらに良いものにする、剛と柔を備え、今まで風格や技法が別種だった各種のものを共通の原理により貫いて完成させる」の理論を体現させた。

八極拳は剛が7で、柔が3を要求する一打必倒を目的とする剛の拳法であるが、劈掛拳は逆に蛇身鷹翅を要求し、しかも轆轤勁を取り入れた技法や曲線の歩法などを得意とする柔に属する拳法である。これらの2つの門派の特徴をうまくかみあわせて融合したのである。

李雲標は体格がよく、勇猛であり、その動きは進退自在であり、その鍛え上げられた双臂(腕)による強打は比武で多くの相手を一撃で打ち倒した。

よって、「塩山新志」第16巻では李のことを「鉄臂燕子」と紹介している。

李雲標は平素大槍を好んで練習しており、元来は楊氏六合の槍を練習していたが、潘文学に師事してからは今まで練習していたものを捨て、潘文学から学んだ奇槍二十四勢と六合大槍を重視し練習するようになった。

李は潘の教えをよく守り一時も大杆子を手から離そうとせず、潘から学んだ槍術を習得していった。

苦練して体得した李の大槍の一突きは速く、師・潘を喜ばせた。

その後も潘の教えを忠実に従い、朝夕まで槍術の技術を磨き研究を続けていった。

その当時の滄州一帯の地域は武風の盛んの地であり、多くの大槍の名人、達人を輩出していたが、李雲標の槍術の功夫の深さは羅瞳の八極拳家である李大中、張同文、そして南皮の周長春といったこれら大槍の名人、達人さえも舌を巻いたという。そして、滄州、塩山などといった地域の人たちに「神槍」と称させれるようになったのである。

また刀法も精通しており、李雲標が劈掛刀を演じると強猛な勁の中で動きは霊活であった。

比武(試合)の時、李は劈掛拳を主として用い、八極は兼攻として用いていた。

お互いの特徴をよく心得え、長、短どちらの技法を自在に使いこなせた。また投げ技も得意とし、李が八極の技法を用いて相手に接近して一度密着すると、相手は動けなくなって離れることができなくなり、相手を有無を言わさずに投げ倒したという。

今現在多くの八極拳家が劈掛拳を取り入れて練習しているが、まさに李雲標こそが劈掛拳と八極拳を兼習して実際に実戦で証明してきた先窟者である。

李雲標は常に「内家拳であろうと外家拳であろうと関係ない、勝敗は勝つか負けるかである」と公言しており、実用を重視し、套路だけの形式だけの練習を軽視した。

比武(試合)の時はたとえ自分より技芸が低くても妥協はせずに攻撃した。

李は弟子たちに「獅子は兎を追う時も全力である。拳法も同じだ」と言っていた。

李雲標は潘文学の門下の中で最も技芸が優れており、大勢の同門の人から「大師兄」と呼ばれ慕われていた。

李雲標は潘文学の下で武術の修行を終えた後、商いをしながら京津(北京、天津といった地域)を歩き回り、その間武術名家を訪ねながら、師・潘の下で苦心した後に習得した己の武術とこれらの名家の武術の良いところを比較してみたりして研究していった。

その後、京師緑営巡捕五営馬歩槍の総教赤β某と知りあうことになる。赤βは河南の人であり、武芸を伝える家柄の出身であった。赤βは槍を得意とし、棍法と双手刀法に独特の見識を持っていた。李雲標と赤βは出会ってすぐに意気投合した。

赤βは以前に京城(現在の北京)の有名な武術家・楊由彪らに屈辱を味わったことがあった。李はこのできごとに怒りを感じ、赤βのために京城中の多くの武術家を暢春園へ招待し、その機会を利用して、多くの人が見守る中、楊由彪ら数名の武術家と試合をして打ち倒した。これにより李雲標の名声は上がり、京城中の武術家はすべて李雲標の名を知らぬものはなかったという。後に赤βの強い推薦により緑営総合教師となる。

この暢春園の李の試合のことは多くの人が知ることとなり、やがて唄芸人が「青菜・李」(李雲標は青菜を売る商いをしていたため)歌を作曲して京城中に流れていたという。

その後、民国初年に孫弟子にあたる馬鳳図が北京に赴いた時、「青菜・李」の歌を聴いたので、いかに北京にいた当時の李雲標の武勇の凄さが語り草になっていたのが想像できる。

その後赤β某の強い推薦により、北京緑営総合教師となる。

そして1866年に李雲標が故郷・滄州へ帰ることとなり、北京を離れる時には、李の名声を慕って当時北京在住していた大勢の武術家が李を見送りしたという。その中には当時北京で盛名があった八卦掌の董海川や楊式太極拳の楊健侯たちもいた。

滄州へ帰ってからも同門の肖和成、安廷相、于保麟たちと通備武芸の研究を怠らずに続けていた。

1868年李雲標は農民義勇軍を率いて捻軍の役の戦争に参加したが、乱戦の中に飛んできた弓矢によって射殺された。

戦死の後、地方政府が朝廷に報告したことにより、当時の皇帝は塩山県に昭忠祠を建立し、毎年李雲標の命日(4月10日)に祭事をおこなうこととなった。

その後その祭事が終わった後に、地元または周りの地域から多くの拳師が武術を表演し、李と多くの戦死者の死を悼んだのであった。

この表演大会は塩山県一帯の地域の民俗伝統となり、民国初年まで毎年おこなっていた。

捻軍の役は滄州一帯の地域に大きな被害をあたえたことにより、滄州人にとって忘れられない出来事となった。

この捻軍の役の戦闘は多くの武術家も参加しており戦死した。羅瞳八極拳の代表人物であり「神槍」と称された李大中もこの戦争で亡くなった。

李雲標と多くの李の門下生170余人等、多くの戦死者が出たことにより、通備は世に出るのを控え、あれほど李雲標が武勇での強さを広く発揮したのにもかかわらず、通備の名が世に知られてないのはこの出来事による原因でもある。

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