通備拳創始者 馬鳳図

通備拳の創始者である馬鳳図は1,888年生まれであり、幼年の時、父馬捷元について六合拳等の武術を学び、そして母方の祖父であり孟村の八極拳の宗家・呉世軻と同じく親戚にあたる呉懋堂から八極拳を学んだ。そして当時の塩山の名人、黄林彪の入室弟子となり、黄より劈掛拳を学び全伝を請け継いだ。それにより李雲標、黄林彪と続いた通備武学を継承した。

馬鳳図が生まれ幼少の時にすごした滄州は中国で「武術の最盛の地」として有名であり、そこで家族や親戚の多くの実力のある武術家に囲まれた中で長じていった。

若くして「千里追風侠」と称され、天津、滄州一帯の地域に知られた馬鳳図は天津で孫文が率いた同盟会に参加する。

やがて民国初年に天津で同志と共に「中華武士会」を設立した。この「中華武士会」は古今を通じて最も程度の高い武術団体であったと言われ形意拳の李存義、太極拳の李瑞東、劈掛拳の肖公輔、八極拳の張景星などのほかに、さらに神槍・李書文や弟の馬英図など当時の総勢たる武術家が参加した。その中で当時大学生の身でありながら副会長と総教師を兼任した馬鳳図の実力はうかがい知ることができる。

その間武士会の代表として天津某校の日本剣道教師と剣の試合をし、三戦全勝し、馬鳳図の愛国精神は当時の天津の若者に深々と影響力を与えたのである。 馬鳳図 老師 1914年、馬鳳図は東北地方へ赴いた時、現地の武術家 赤β鳴九、程東閣、胡奉三の三人の武術家と出会って意気投合し、たがいに交換教授を行い翻子拳を習得した。

1919年東北より北京に戻った馬鳳図は西北軍閥の領首である馮玉祥将軍と知遇を得てたがいに意気投合して西北軍に迎えられて軍人となり甘粛省へ移住した。その後退役し一切の官職から離れ、医を持って業とした。事態が変わっても生涯武術研究は続け、これまでに学んだ劈掛、八極、翻子などの別々の流派を通備武術という一つの流派に編成した。

甘粛省の四代名医の一人にあげられ、高徳な人柄は今でも語り草となっている。

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