この試合の模様を過去から馬賢達老師が語ったことを基に紹介したいと思う。協力してくだされた馬老師に感謝の意を表したい。

1952年の天津での散打大会は天津市において開催された。中国史上初の大規模なこの大会は天津、北京、東北地区、山東などの地域から選手を集めて行われたのである。

歴史的、地理的から見ても天津は武風の盛んな土地であり。広大な中国大陸の中でもトップレベルにある。南方の所には古くから【武術の郷】と呼ばれている滄州地区があり、北方には北京があり、河北保定地区にも近い。清代末期から民国にかけて、多くの武術家が天津に来た。有名な武術団体「中華武士会」は葉永表と馬鳳図によって天津で創建したのである。李雲標、王正誼、孫禄堂、李存義、霍元甲、李瑞東、李書文、馬鳳図、馬英図、霍殿閣などの武術史上名高い武術家が天津に住み、武術を指導したりしていた。

それに新中国成立後、政府の提唱により、体育試合と表演大会が盛んに行われるようになった。よって1952年天津で挙行されたのは歴史的や現実的の根拠からして意義のあるものである。

この大会の正式名称は「天津民族形式体育表演比賽大会」と言い、この大会は套路の表演、散打、短兵、長兵をはじめ多くの種目があり、その中で馬老師は表演、短兵、そして散打と参加することとなった。

馬老師は3部門に参加し、表演で一等を獲得し、短兵と散打で優勝した。若干19歳で並みいる強豪を倒して優勝を果たした馬老師は中国国内で大きなセンセーションを起こした。その中で散打大会の試合は武林界で極めて注目されていた種目であった。それはかつてこの様な形式で武術家の間で試合がなかったことと、多くの武術名家が参加したからである。各門派の高手がこぞって参加したこの散打大会はまさに空前絶後といっていいだろう。

大会の運営は張文広であり、レフリーを担当したのは神槍李こと李書文の弟弟子である八極拳名家・黄岐山など数名がいた。

その中で特に中量級は注目されており、李学文、そして当時天津で実力No.1と称されていたケ鴻藻などといった錚錚たるメンバーが参加していた。

ルールは眼、喉、股間以外はどこでもいかなる攻撃してよく、手と足の他に、肘、膝、肩なども用いてよかった。打撃の他に投げ技、関節技も可能であり、規則的には比較的ゆるく、武術らしい技を発揮するのに有利であったので危険であった。また、トーナメント制であり、KOはもちろんのこと、ポイント制による判定も採用されていた。

上半身は防具、手には薄い皮製のグローブをつけるのだが、このグローブはボクシングのものと違い、当時のものは海綿がほとんどなく、拳、掌、指の使用に有利なものであったので、グローブをつけてない時とさほど変わりがない感じで、わりと激しく攻撃できたとのこと。

よってこの散打大会は今のものよりも真剣勝負に近いものであった。

「こんなルールではほとんど規則がないものであったし、しかも参加していた選手同士が自分の門派の名誉にかけていち早く相手を打ち倒そうととしていたので、負傷者が続出したんだよ」(馬老師談)

「大会に参加する前に当時私が通っていた大学の校長にばれてしまい、”君はまだこんなに若いのにどうしてこんな危険な試合に出るんだい?もし自分の親が知ればどんなに心配するか考えてごらん”って言われたよ(笑)」(馬老師談)

「参加していた選手同士門派意識が非常に強く、参加していた選手の一人に”お前はどこの門派の誰の弟子か?”って聞かれたから、私は”神槍・李書文の弟子だ”って言ったんだ、なぜなら当時まだ馬鳳図は天津で有名だったから、もし負けたら父に申し訳ないと思ってね(笑)」(馬老師談)

「私は西北の辺鄙な所で成長してきた人間で、天津の武術レベルについて把握していなかった。そんな不安の中大会の運営をやられていた張文広先生が”君なら勝てる、なぜなら君は叔父さん(馬英図)の気質を受け継いでるからだ”と言われ少しはリラックスできたが、でも天津は古今から『蔵龍臥虎』(優れた武術家が世に出ず隠れている)の地と言われ続けてきたからである、だから試合が始まるまで不安でたまらなかった」(馬老師談)

それら猛者集まった激闘の中で馬老師は相手を30秒以内で倒て勝ち進み、ついに準決勝で鴻藻と対戦することとなった。ケは通臂拳大師で有名な張策の弟である張哲の大弟子であり、当時の体力、気力、功力は衆を抜きんでいた。それにボクシングの訓練の心得もあり、誰もがケが若い馬賢達老師を圧倒すると信じていた。 「実は前にこの大会の短兵の試合でケ先生と対戦したんだ。ケ先生の剣の一振りの衝撃は非常に強く、その勇猛な攻撃は異常といっていいほどだった。その時は私がケ先生の喉を一突きして勝ったんだ。本当は反則なんだけど、私が突きが早いからレフリーの目に見えなかったんだよ。だからケ先生の功力の高さは充分わかっていたから、散打大会の準決勝でケ先生と対戦することになった時震えが止まらなかったよ」(馬老師談)

試合が始まるとケは通臂拳の連打で馬老師を後退させた。それを見ていた数千人の観衆は馬老師がただ逃げているだけのようにしか見えてないらしく、ケの攻撃を避けているだけで攻撃をしようとしない馬老師に冷やかしの声を出したり、笑い声を出したりしていた。しかし馬老師は劈掛の変幻自在であり軽妙な身法や歩法をやりくりしながらケの攻撃をかわし、隙を窺っていた。そしていつの間にかケは馬老師を擂台の端まで追い詰めた。もう少しで擂台から落ちてしまうその危機一髪のところで馬老師はケの一撃をかわし前手(左手)でケの顔面に打ち込んだ。そしたらレフリーが馬老師を呼び止めた。ケの顔面が真っ赤に腫れたので、試合続行できるか確認して判断するためであった。ケは出血してなかったので試合再開となった。この一撃で馬老師は自信がつき、それと同時に馬老師はケは防御があまり得意ではなく、反応力の劣っていることがわかったとのこと。

「この一撃で私はケ先生に勝てると確信した」(馬老師談)

馬老師とケは距離を取りながら攻撃のチャンスを窺っていた。そして反撃したい一心からかケは鋭い左右の連打を打ってきた、それを馬老師は横にかわしながら左腕で受け、右手を横に振り出し「開門砲」(劈掛拳の招法の一つ)をケの頭部に打ち込んだ。その一撃でケの巨体が前方の地面に叩きつけられたほどだ。そしてケがフラフラと立ち上がったところで、記録係からの声が響き、第一ランド終了となり、馬老師が3対0で1ラウンドを取った。一分の休憩を経て、第二ラウンドが始まったが、第一ラウンドでケは自信を失ったのか、攻撃に勇猛さがなく、打っては引いてといったかんじで消極的になったので、馬老師は攻撃を続け上下左右と攻撃を繰り出し、ポイントを取り続け、このラウンドも3対0で馬老師が優勢で、2つのラウンドをとったので決勝へ進むこととなった。

その翌日、馬老師は別の組から勝ちあがってきた李学文と決勝で戦うこととなった。その日の昼間に馬老師は短兵の決勝で鴨形拳の大師・李恩貴に圧勝し、短兵部門において優勝した。夜に散打大会の決勝をおこなうのである。

「今でも覚えているが、散打の決勝は夜になってから強い照明の下でおこなわれたんだよ」(馬老師談)

李学文は戳脚の名手であり、その得意の蹴り技で多くの対戦相手を蹴り倒し、決勝まで上がってきたのである。

そして試合開始後馬老師と李は徐々に前へ歩法で近づいていき、互いに戦機を窺った。そして向かい合ったその束の間、李は前足で直蹴りを出してきたので、馬老師は後退してかわすその刹那、李の後ろ回し蹴りが続けざま素早く飛んできたので、馬老師は敢えて避けようとせず前へ踏み込んで左右の「開門砲」の連打を連発させ李の顔面と後頭部に命中した。李はフラフラになったが、この攻撃で目が覚めたのか、すぐに態勢を取り直し猛烈に左右の蹴りの連打で反撃してきた。それを馬老師は右足で李の右の蹴りを受け止め一気に左右の両拳で連打を放った、左拳が李の胸に、右拳が李の顔面に命中し、その衝撃で李はダウンした。馬老師の連打によるダメージは非常に重く、李は鼻骨を痛め、出血が大量で止まらなかった。よってレフリーは試合を止め、馬老師の勝利であると宣告したが、李は拒否し続け再三試合再開を要求していた。

「この時李先生の弟子数十名が私たちの回りを囲みすごい怒声をあげて抗議していた。あの時の異常な光景は忘れない。李先生は門派の面子をかけて私に勝たなければならないのであった」(馬老師談)

李とその門下生の強い要望により再会となったが、深い傷を負って体力的に限界がきていた李の攻撃はすでに怠慢なものとなっており、なかなか攻撃して来なくなったので、馬老師の攻撃は止まらずポイントを取り続け、第1ラウンドを3対0の優勢でとった。

「1ラウンドの怪我でも李先生は試合をやり続けようとしたが、精神面や動きも怠慢になっており、気力もなくなってきたそんな李先生の顔面を私は打つ気持ちになれず敢えて軽く小弾腿や鴛鴦腿などを繰り出してポイントを取り続けて第2ラウンドも攻め続けた」(馬老師談)

第2ラウンドも馬老師が3対0でとり、その結果馬老師が勝利となり優勝を果たした。

当時無名な19歳の若者であった馬老師が優勝したことは前代未聞なことであり、武林界に大きな衝撃をあたえた。

一昔前までは武術の技術の高低を評価するための基準は、表演の美しさを見るのではなく、相手から勝利を奪えるかどうかを見た時代であった。よって今の現在のものとは違い、大きな差が見受けられる。

「武術家は勝ったり負けたりするのは常である。李先生は2位、ケ先生は3位となったが、彼らの実力がないとは言えない。李先生はこの大会の長兵器の部門で優勝したので、彼の槍法は大変すばらしいものである。私が幸運にも勝てたのは、子供の頃から私の父であり師でもある馬鳳図老師の監督下で伝授され、『体用具備』の法則を貫いてずっと実践してきたからと言っていいだろう。例え顔や体にアザが出来てもしても、自己の技術を磨いてきた。天津へ行く前に蘭州で兄・馬穎達や師兄弟たちと常に手を交えたりしていたものだ。私たちほどこんなに恵まれた環境ではなかったと思う。これは父のおかげだ。あの散打大会が終わってから、私自身まだ若かったのか、十分に納得いかなかった部分があったので、とどまることなく多くの武術家と試合した。そして負けたことがなかった。その当時、私の優勝を不服に思っていた多くの門派の人が大学まで押しかけてきて挑発的な態度で試合を申し込んできたものだった。当時、私は血気盛んだったので、来る者は拒まなかった。ある時は何も準備せずすぐに打ち始めた、またある時は続け様に何人も打ち倒した。相手の道場で試合したり、工場の敷地内でも試合したりしたこともあった。彼らは私の相手ではなかった。たった一度だけの優勝でこんなに多くの人を招くとは若い私では思ってもみなかった。しかし実戦経験を多く積むために必要だったのでこの挑発に応じたのだった。それは私にとってどんな相手でも対応できる能力が身につくことができ、また相手の招法を学べるいい機会であった。それにより私の戦術面も増え、実戦の覚悟もわかり向上してきた。あれからもう50年以上も経ってしまった。しかしあの大会は武術発展にとって非常に重要なことであったし、資料を集めて調べてみたが、あの大会に参加した人はほとんど亡くなっており、残っているのは私を含めほんのわずかしかいない。あの大会の出来事を整理して書き残すことで後世の人たちの役に立てればと思っている」(馬老師談)

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